増山たづ子
すべて写真になる日まで

2013年10月6日() – 2014年7月27日()
※ご好評につき会期を7月27日(日)までに延長いたします。
《櫨原(はぜはら)分校》1983年
 岐阜県徳山村で生まれ育った増山たづ子は戦争で夫を亡くした後、村で農業のかたわら民宿を営みながら暮らしていました。1957年、この静かな山村にダム計画が立ち上がり「皆が笑って過ごす天国のガイ(様)」と増山がいう徳山村も推進派と慎重派に二分されます。増山がそれまで使ったこともなかったカメラを手に取ったのは、徳山ダム計画が現実味を帯びてきた1977年、ちょうど60歳の時でした。「国が一度やろうと思ったことは、戦争もダムも必ずやる」と縄文時代以前から続くという村のミナシマイ(最後)を前に、せめて残せるものを残そうと愛機・ピッカリコニカで故郷の村をすみずみまで撮影して歩きました。

《花盛りなのに》1985年
 そんな増山はたびたびマスコミにも取り上げられ「カメラばあちゃん」の愛称で知られるようになりました。村民運動会で初めて写真を撮影して以降、年金のほとんどを写真につぎ込みながら1987年の廃村後も通い、2006年に88歳で亡くなるまで消えゆく故郷を撮り続けました。あとには約10万カットのネガと600冊のアルバムが残されました。
 2008年、計画から半世紀を経て徳山ダムは完成し、かつて村のあった場所は水の底へ沈みましたが、残された写真は在りし日の徳山村の姿を今に伝えてくれます。
 本展では増山のアルバムや彼女自身の手で録音された村の音、村の植物でつくられた押し花を中心に展示いたします。

大西暢夫《徳山小学校校門跡の増山たづ子》1996年
大西暢夫《増山たづ子の部屋のアルバム》2006年
【増山たづ子関連年譜】
1917年 岐阜県徳山村(現・揖斐川町)戸入生まれ。
1936年 同じ村の増山徳治郎と結婚。のちに一女一男をもうける。
1945年 夫・徳治郎、ビルマのインパール作戦に動員され、行方不明となる。
1957年 徳山ダム計画が立ち上がる。
1973年 徳山ダムを盛り込んだ木曽川水系水資源開発基本計画決定。
    この頃村の生活音等の録音を始める。
1977年 徳山ダム計画が本格化し、ピッカリコニカで写真を撮り始める。
1983年 徳山村を舞台にした映画「ふるさと」(監督:神山征二郎)に出演。
    最初の写真集『故郷—私の徳山村写真日記』を出版。
1984年 エイボン功績賞を受賞。
1985年 離村。岐阜市内に転居。
1987年 4月、徳山村廃村、藤橋村に編入。
2000年 徳山ダム本体工事着工。
2003年 岐阜地裁が事業認定取り消し訴訟を棄却。
2006年 3月、88歳で死去。
    9月、徳山ダムの試験湛水が始まり、旧徳山村跡地が水没。
2008年 5月、徳山ダム完成。

【著書】
『故郷̶—私の徳山村写真日記』(じゃこめてい出版、1983年)
『ふるさとの転居通知』(情報センター出版局、1985年)
『ありがとう徳山村』(影書房、1987年)
『まっ黒けの話』話者:増山たづ子、編者:鈴木暹(影書房、1993年)
『増山たづ子 徳山村写真全記録』(影書房、1997年)ほか。

【CD】
『ダムに沈む昔話の世界 たぁばぁちゃんの昔がたり』第1集・第2集、企画構成:野部博子(インテグラ・ジャパン、2000年・2002年)

増山たづ子さんは、徳山村が消えゆく前に、まるごと写真の中に引越しさせ、時間の制限からはなれて村をいつでも訪れることのできる場所にしたように思います。途方もない悲しみや怒りが透明なレンズをさらに磨いたのか、写された光景がただひたすらに明るく、優しいのに強く胸をうたれました。
加瀬亮(俳優)


増山さんの写真はいつも被写体の真正面から撮られている。戦争で夫を、ダムで故郷を奪われた者の心の叫び声が私には聞こえてきた。
神山征二郎(映画監督)


一つの村から人の暮らしが消えることの衝撃が、いまも増山さんの写真をぴんと張りつめさせている。私は在りし日の徳山村を知らないが、自分の生きてきた時代への大きな懐疑が押し寄せてくる。
高村薫(小説家)


雪の中でヒマワリが咲いていました。世の中には不思議な事がたくさんあるとたづ子さんは言う。彼女の全身全霊の抵抗がここにあって、ああ、だから人々も花も山も家も、お金の交渉にきた銀行の人でさえも、写真の中に優しく写り、等価なのだと思いました。
志賀理江子(写真家)


この写真の鮮やかさは増山たづ子さんの村と村人への深い愛から生まれたのでしょう。カメラのレンズですべてを自分の孫のように撫でているような感じがします。見事な写真の中で、なくなった村、いなくなった人たちがまだ生き続けています。
ジャン・ユンカーマン(映画監督)


30年前の徳山村での「ふるさと」のロケ。監督の若かったこと。あたしだって子供と昼寝する嫁の役だったもの。澄んだ水にしか住めないイワナの塩焼き。あれ以来川魚食べられるようになったの。今日移転先の一つ本巣郡文殊の徳山団地に行ってみた。まっ昼間なのに人の気配がしない補償金で建てた家々。あの頃急造成で地盤沈下やら何やらふんだりけったりだったわねぇ。なのにたづ子さんの写真からは愚痴が見えない――ただなつかしいの。(2013年6月26日)
樹木希林(俳優)


写真のための写真、美術のための写真へと、進行している現在、
こーゆー、これこそ「写真」を展示するIZU PHOTO MUSEUMは☆☆☆
素晴らしい増山たづ子おばあちゃんにアラキッス!

荒木経惟(写真家)


みんなが笑ってる、人も、鳥も獣も、草も木も山も。地図のうえから消され、やがて水底に沈められた故郷が、いまも笑ってる。来たるべき不在のときに向けて組織された、記憶をめぐる戦いは、きっと受け継がれる。徳山から、たとえば福島へ。あの笑いとともに。
赤坂憲雄(民俗学者)


写真は情報量が圧倒的に少ない。ズームもパンもできない。ナレーションもテロップも音楽もない。欠落している。だから強い。見る側が想うからだ。見ながら増山たづ子のことを想う。撮る瞬間の表情を想い、どんな人なのかと想う。そして嬉しくなる。明日は今日より優しくなれそうな気がする。
森達也(作家、映画監督)


たづ子さんは生きとし生けるもの全てが友だちだった。毎朝カメラを手に巡回?に出かけ、山河草木人動物と行き交うたびに大きな声で「お早う元気か」とあいさつしてカメラにおさめていた。あのお声が懐かしい。
山口崇(俳優、民話研究家)


人は皆、喜怒哀楽の情を顔や仕草で表しながら生きている。被写体となったこれらの人達と彼女と共に生きた私には、彼女に向けてくれた彼らの笑顔をただ純な喜と楽の情のみにとらえてほしくない想いがある。
平方浩介(甥、児童文学作家)


「忘れてはいけない」と簡単に言うが、放っておいたら時代とともに消え去るものを忘れないためにはどうすればいいのか。増山たづ子の写真に遺された人々の笑顔が、その一つの答えを教えてくれた。
開沼博(社会学者)

【カメラばあちゃんの言葉】
◎大雪が降れば、家々につながる細い雪道をつけて、三人ヨレ(集まれ)ばお酒を飲み唄を唄い踊り出し、また昔の思い出話をしたりして楽しく過し、お天気になるとそれぞれに屋根雪おろしをして、年寄りの家は村人達が集まって屋根雪おろしもやってくれて、皆が仲良くいつも笑って過した。アンラントー(私たち)には天国のガイ(様)なところでした。

◎イラ(私)もいくら日本一のダムになっても、アガデ(自分)の大事な故郷がダムになっては、かなわん、と思い、真剣にはじめは反対しました。だけど国の力にはかないません。国が一度やろうと思ったことは、戦争もダムも必ずやるから、大河に蟻がさからうガイ(様)なものです。

◎ビルマインパール作戦で行方不明になった夫が帰って来たら、写真だけ残った、大事な故郷を見てどう思うだろうなー。

◎私たちはダムのために大事な大事なふるさとを出てきた。ダムが少しでも長く皆さまのお役に立って、少しでも喜んでくれる人がいないと、私たちは何のために村を出たのかわからなくなる。私たちが出てきたことでどうぞ皆が幸せになってくれますよう祈らずにはおれない。

◎幾百年、栄えた我が村も、時の流れにはさからえず、昔の光、いまいずこ

◎残り火を、集めて燃やす、余生かな
《門入のお盆》1984年
《雪とひまわり》1985年
《家壊しを見守る人々》1985年

《下手の橋と戸入富士(たづ子命名)》
1984−85年
《イチョウと子供たち》1982年
《川遊び》1984年
[徳山村]
岐阜県揖斐郡徳山村は美濃の西北端・揖斐川水系最上流部に位置していました。8つの集落、約500戸、1500人からなり、周囲を1200m級の山々に囲まれた多雨・豪雪地帯。1987年に旧藤橋村(現揖斐川町)に編入され、地図からその名前が消えました。

[徳山ダム]
岩石や土砂を積み上げて造る日本最大級のロックフィル式多目的ダム。計画だけでいつまでたっても建設される気配のない「幻のダム」とも呼ばれました。長期の補償交渉を経て2000年に本体工事に着工。2008年に完成し、旧徳山村の門入(かどにゅう)集落を除く全ての集落部がダム湖(徳山湖)に水没しました。

[カメラばあちゃん]
増山は写真を撮り始める前、村の生活音を録音していました。カメラに興味を持ち始めたのは、ダム計画が現実味を帯びてきた頃。当初はフィルムの入れ方すら知りませんでした。愛機・ピッカリコニカと首に巻いた水色のタオルはトレードマークとなりました。増山はこのカメラを何度も修理したり買い替えたりしながら使い続けました。

[浮いてまう]
徳山村では村が「沈む」ことを「浮いてまう」と表現します。「水没」とは村の外から見た言葉であって、故郷を追い出される人々にとっては自分たちの生活が根を失って浮き上がってしまうことを意味しています。

《友だちの木》1984年
《ミナシマイ(最後の)村民運動会》1986年
[友だちの木]
増山の住む戸入(とにゅう)集落の川縁に生えていた楢の老木。川で洗濯をする増山のよき話し相手でした。いつも「ワシを見よ、大水で根を洗われ、台風が来て枝を折られてもこうして立っているぞ」と慰めてくれたといいます。増山はこの木が生きながら水に沈むのかと心配しましたが、岐阜市に移転する頃に枯れてしまいました。

[ピッカリコニカ]
1975年にコニカから発売されたピッカリコニカはコンパクトカメラの先駆け機種。軽くてストロボも内蔵していたこのカメラは大ヒット商品となり、カメラの大衆化に貢献しました。民宿を訪れた客に「素人の自分でも写せるカメラはないか」と相談したところ「猫がけっころがしても写る」とこのカメラを薦められたといいます。増山はピッカリコニカの開発者・内田康男氏と長く親交を結びました。

[関連イベント]

◎講演会
篠田通弘(徳山村の歴史を語る会、元徳山村教員)
「“浮いてまった徳山村”とは何だったのか—廃村から30年を前にして—」

12月15日(日)午後2:30–4:00
定員50名、無料、申込先着順(当日有効の観覧券が必要です。お電話にてお申し込みください。055-989-8780)
会場:クレマチスアカデミーフォーラム(IZU PHOTO MUSEUM隣接特別会場)

◎上映会
「ふるさと」 (1983年、106分)
監督:神山征二郎 制作:こぶしプロダクション
出演:加藤嘉、長門裕之、樫山文枝、前田吟、樹木希林ほか
(1)2013年12月8日(日)午前11:15–午後1:00/午後2:15–4:00 の2回上映  <終了しました>

(2)2014年5月25日(日)午前11:15–午後1:00/午後2:15–4:00 の2回上映

定員150名、無料、先着順(申込不要、当日有効の観覧券が必要です。)
会場:クレマチスの丘ホール(IZU PHOTO MUSEUM隣接特別会場)

「浮いてまう—岐阜県徳山村への愛惜—」(1977年、48分)制作:東海テレビ
10:00/11:50/13:40/15:30 ※連日展覧会会場にて上映

「消える村」(1985年、60分)制作:東海テレビ
10:50/12:40/14:30 ※連日展覧会会場にて上映

◎トークイベント
1)1月19日(日)午後2:30-4:30  <終了しました>
出演:山内公明(元東海テレビディレクター)、齋藤秀夫(元NHKカメラマン)、野部博子(増山たづ子の遺志を継ぐ館)コーディネータ:小原真史(当館研究員)

2)2月9日(日)午後2:30-4:30  <終了しました>
出演:神山征二郎(映画監督)、平方浩介(児童文学作家、元徳山村教員)、大西暢夫(写真家)コーディネータ:小原真史(当館研究員)

3)6月1日(日)午後2:30-4:00
出演:本橋成一(写真家・映画監督)、大石芳野(写真家)、小原真史(当館研究員)

定員50名、無料、申込先着順 (当日有効の観覧券が必要です。お電話にてお申し込みください。055-989-8780)
会場:クレマチスアカデミーフォーラム(IZU PHOTO MUSEUM隣接特別会場)
[関連書籍出版のお知らせ]

『増山たづ子 すべて写真になる日まで』
編者:小原真史、野部博子

サイズ:B5判変型、165×197mm
ページ:400P 、ソフトカバー
ブックデザイン:林琢真(Hayashi Takuma Design Office)
言語:日本語
発行:IZU PHOTO MUSEUM
発売:NOHARA
刊行日:2014年5月9日
ISBN:978-4-904257-21-0
価格:本体3,300円+税

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《戸入分校》1985
協力:増山たづ子の遺志を継ぐ館